心の病⑤心の病でお悩みではありませんか?家族の心の病についての経験
これまでは、母を入院から退院までの事を書いてきました。
20代の私自身は仕事と母をなるべく看ながらの生活でしたが、
母は自分の姉(私の叔母)と一緒に内職までできるようになり、
少し落ち着いた生活が続きました。
付き合っている人は居たけれども、母の病を理解する事はできないだろう!
と思いながら、結婚はとても考えられませんでした。
何年か付き合いが続く間に、母とも何度もあってくれました。
どうしても結婚したいと言ってくれて、結婚を決めました。
結婚と子供を授かってから
私自身は長女でもあり、相手も長男であったため、
相手のご両親からもしばらく反対がありました。
二人の人生なのでという理解があり、結婚に踏み切りました。
いづれ、母が一人なので、看てくれる約束もありました。
結婚当初は、母も叔母と内職をしながら、元気に過ごしていたため、
母の近くに住むところを決め、生活が始まりました。
子供は2人授かることができましたが、里帰りできる環境ではなく、
なんとか、元気に子供が幼少期まで、育ってくれました。
パニック発作
以前に書いたように、子供たちが幼少期のころ、自分の幼少期の忘れていた記憶が蘇り、自分でもおどろくひどい動悸、冷や汗、がありました。
また、主人が自営業だったため、子供たちは保育園でしたが、
経理を私がしていました。
そのころ、母が腰の圧迫骨折があり、しばらく寝たきりになりました。
母も高齢になってきたため、主人の理解もあり、母と同居することになりました。
簡単にいえば、「実家」というものは私にはなくなりました…。
母の世話、自営業での経理、従業員さんへの給料の資金繰りなどで、
夜は相変わらず、あまり眠れない日々が続きます。
ある朝起きた時に、ひどいめまいで、起きれない…。
しばらくして、おさまったので、子供たちを保育園に送り、
内科へ診断しましたが、身体はどこも悪くなく、
最終的に「自律神経失調症」
との診断できした。
時にいきなり呼吸ができない!
「過呼吸」
はじめて経験して、とても苦しくて、身体は痺れ、救急車に乗りました。
過呼吸への対処などを聞き、紙袋で自分の吐いた息を吸う、
時には息をしばらく止めてみる。
などが、頻繁にありましたが、自分で緊急対応をすることになりました。
突然くるめまいや、冷や汗、動悸
とともに、過呼吸、も急にやってくるので、外へでるのが怖くなったのが、
子供たちが低学年の頃…。
買い物は生協などを利用し、なんとか過ごしましたが、身体が全然動けなくなったのが「うつ病」
今後子供たちの事も母の事も全て何も考えず、逃げてしまいたいと思う気持ちが強くなっていました…。
破綻と現在に至るまで
母の少し人と違った言動は、
私は母がそういう病だからと受け止めるしかなかったし、子供たちは小さな時はおばあちゃんとして普通だと思っていました。
子供たちもすこしづつ分かってきた時期も説明しました。
子供たちは思春期に近くなり、色々調べてくれた様子で理解はありました。
私が動けなくなった時が多く、
その時には、圧迫骨折も治った母に、子供たちの事もとてもお世話になりました。
主人としては、私も体調が悪くなったことと、母との同居にも、長くなると
やっぱり、辛くなり、居場所を失くした様子で、離婚になりました。
とりあえず、元気にならないと!私が働かないと!
思いつつ、すこしづつ外を散歩して、外への恐怖を治していきました。
子供たちも色んな面でよく助けてくれました。感謝しかありません。
母と私、二人の子供たち、4人で、なんとか大変な状況も脱出。
子供たちも、今は独立し、母と二人の生活になりました。
仕事はありがたく、働ける事がうれしく、そんな最中に、
母の度重なる、転倒による、骨折が何回かあり、寝たきりもあり、
子供たちの独立も応援しながらも、母は寝たきりの途中で認知症を
発症しました。
仕事はシフト制だったため、休むと迷惑がかかり、辞める事になりました。
すごく覚悟もいって、これからの事も不安で哀しかったですが、
認知症の母を
独り、家に置いておくことは出来ず、今に至ります。
私自身も時折、体調が悪くはなります。
介護もあるので、寝不足も仕方ないけれど、頑張っている子供たちには
負担をかけないようにがんばっていきたい気持ちです。
今までの心の病に関する記事は
まだまだ、心の病
が、増えているといえども、世間では甘えなどと言われたり
なった事がない人には分からないですよね。
色んな母と私の経緯を並べて綴ってきました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
ゆうでした。
でわ、また。
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